トウガラシの文化
トウガラシの「トウ」は漢字で「唐」。
つまり中国から来たんでしょ?
そう思ったあなた・・・
実は!!
トウガラシくんにはもうちょっと複雑な事情があるのです。
★トウガラシの伝来と名称
★トウガラシの呼称
★トウガラシの普及
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
ニンニク 朝鮮半島の料理の特徴は、と聞くとためらわず。辛い味の料理が多い、という答えが返ってくる。
トウガラシはキムチにだけ使われているものではない。各種料理の味のアクセントに欠かせない存在である。しかし、このトウガラシの味が伝統的なものとなったのは、そう古い話ではない。
筆者が食文化の研究をしているとよくきかれて困ることがある。
「あなたの国の地には古くからトウガラシがあって、栽培に適した土地柄なので、よく食べられるようになったのでしょうか」ということである。
よく利用するからといって古くからあることにはならない。
朝鮮半島の料理が辛くなったのはそんなに古い話ではない。
未だ300年にならないだろう。今日のような使われ方をしたのは150年くらいとみなしていいだろう。
キムチのところでも触れたが、漬物にトウガラシが使われたことで、キムチ文化は花を咲かせることになる。
文献記録によると、朝鮮半島にトウガラシが伝えられたのは、日本からである。
1613年に編まれ、翌年に出た『芝峰類説(チボンリュソル) 』には南蛮椒には大毒がある。
倭国からはじめてきたので俗に倭芥子(ウェギョジャ=にほんからし)というが、近ごろこれを植えているのを見かける。酒家では、その辛さを利用して焼酎にいれ、これを飲んで多くの者が死んだ。
この記録から二つのことが解る。
トウガラシが朝鮮半島にもたらされたのは日本からであること。
辛味成分を毒としてとらえていたことである。
焼酎には「毒」のトウガラシを利用したのは、酒のまわりを早くするために、酒家が考えた智恵だろうとされている。一種のインチキ商法ともいえようか。
トウガラシが朝鮮半島に伝わった道を考えてみよう。
その一つは豊臣秀吉の朝鮮侵略(朝鮮側は壬辰倭乱)である。
日本の各地から20万近くの兵が朝鮮に入ったが、その前後にトウガラシが持ち込まれたことが考えられる。
文章記録になっていない口伝記録ではあるが、加藤清正が目潰しにトウガラシ粉を使ったとされる。
加藤清正憎しから来た話かもしれない。
もう一つは秀吉以前に、倭寇(わこう)によって伝わった可能性も強い。
(「倭」は日本・日本人、「寇」は賊・外敵の意)。13~16世紀、朝鮮・中国の沿岸を日本人が掠奪したことに対する朝鮮・中国側の呼称。瀬戸内海・北九州の海賊が中心で、元来は私貿易が目的(広辞苑、岩波書店))
加藤清正は今の熊本から朝鮮に向かったし、倭寇も九州周辺に基地を持っていたことから、九州から伝わった可能性が高い。筆者は秀吉侵略以前に倭寇による伝播のほうが有力と見ている。
この九州ルートを裏付けてくれるのは、日本にトウガラシが伝わった記録による。
1542(天文11)年に今の大分県である豊後にポルトガル人によって伝わったからである。
(『草木六部耕種法』)。
16世紀半ばに九州地方に伝わっていたということは、17世紀初の朝鮮の『芝峰類説』にある倭国から来たという記述を理解する上で大切だろう。
秀吉の軍勢が朝鮮にいた1592~598年のころには、すでに朝鮮の地の一部にこのトウガラシがあったとみられる。
それは日本のトウガラシに関する記載が、秀吉の朝鮮侵略のとき持ち帰ったものだとされるているからである。
『大和本腐』(1709年)、『物類称呼』(1775年)などにそのことが記載され、高麗胡椒と呼ばれている。
トウガラシは16世紀にヨーロッパから九州に伝えられ、それが近くの朝鮮へと伝播し、一部で使われていたのを秀吉の兵たちが珍しいものとして持ち帰ったものとみられる。
特に九州からでなく本州からの兵たちにとっては見たこともない「貴重な作物」だったわけだ。
トウガラシは九州から朝鮮。そして本州へと伝播したものとみてよいだろう
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
現在呼びならわされているコチュである。
南蛮椒(ナムマンチョ)、番椒(ボンチョ)、倭芥子(ウェギョジャ)と呼ばれた「毒」のあるトウガラシがどうしてコチュになったのか。
ニンニク 漢字の「苦椒(コチョ)」という表記が訛ったものである。
日本では「苦」を「苦い」とするが、当時の朝鮮の辞典を見てみよう。
16世紀初の『訓蒙字会』によれば、「火のついたような刺激の味の苦(コ)」と解説されており、燃え上がるような辛さの椒という意味で「苦椒」に落ち着いたようである。
コチョがコチュへと変わったとされる。
また苦椒は苦草ともされた。椒と草は発音が同じであること、トウガラシも草であることから、もっともな表現ではある。
しかし、李朝の宮中宴会メニュー『進宴儀軌』(1800年代)には「苦椒」で統一されている。
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
ニンニク 日本から来たので倭芥子と呼び、「毒」があるといって、これの使用に疑問を持った人がいた17世紀はじめの朝鮮半島は、いまやトウガラシ消費王国となっている。
料理の味が辛いとされる今日のトウガラシ王国は。
どのように出来上がってきたのか、また先に伝播した国の日本列島と同じでないのはどうしてなのか。
朝鮮半島の辛いトウガラシの味が定着するのには、かなりの歳月が必要であった。
トウガラシ以前にいくつかの香辛料がつかわれていた。山椒、芥子、ニンニク、胡椒、蓼、生姜などである。
これに新しくトウガラシが加わることになるが、そう簡単に一般化していない。
1600年代末ごろの料理作りが記された書『要録』、『飲食知見方』、『酒方文』にはキムチ作りはあるが、それにトウガラシは使われていない。
トウガラシが生活に必要なものとして登場するのは、1715年の『山林経済』からである。
『芝峰類説』の毒物扱いの記述からほぼ100年が経っている。
その50年後の1765年に、この書を補った『増補山林経済』に、初めてトウガラシを使った漬物、つまり今のキムチタイプのものが出てくる。
トウガラシが庶民の食生活にポピュラーな材料となるのには、相当な歳月が必要だったことが解る。
それでも先に知られた日本の九州とは違い、なぜ朝鮮半島では生活の中にしっかりと取り込まれるようになったのか。
いくつかの理由が考えられている。
一つは漬物類にすでに他の香辛料が使われていたこと。
山椒、ニンニク、蓼、胡椒、芥子などで、漬物には「辛いもの」があったことになる。
これらにも勝る辛味を持つトウガラシを徐々に使い慣れるようになったのだろう。
また春に植えて夏に実をつけるが、未熟な果実は辛くなく、野菜代わりに貴重な存在となりえた。
次に、当時貴重な輸入品であった胡椒の代わりに使われるようになったとみられることである。
つまり中国から来たんでしょ?
そう思ったあなた・・・
実は!!
トウガラシくんにはもうちょっと複雑な事情があるのです。
★トウガラシの伝来と名称
★トウガラシの呼称
★トウガラシの普及
■トウガラシの伝来と名称
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
ニンニク 朝鮮半島の料理の特徴は、と聞くとためらわず。辛い味の料理が多い、という答えが返ってくる。
トウガラシはキムチにだけ使われているものではない。各種料理の味のアクセントに欠かせない存在である。しかし、このトウガラシの味が伝統的なものとなったのは、そう古い話ではない。
筆者が食文化の研究をしているとよくきかれて困ることがある。
「あなたの国の地には古くからトウガラシがあって、栽培に適した土地柄なので、よく食べられるようになったのでしょうか」ということである。
~~今から300年前に日本から伝来。毒とみなす~~
よく利用するからといって古くからあることにはならない。
朝鮮半島の料理が辛くなったのはそんなに古い話ではない。
未だ300年にならないだろう。今日のような使われ方をしたのは150年くらいとみなしていいだろう。
キムチのところでも触れたが、漬物にトウガラシが使われたことで、キムチ文化は花を咲かせることになる。
文献記録によると、朝鮮半島にトウガラシが伝えられたのは、日本からである。
1613年に編まれ、翌年に出た『芝峰類説(チボンリュソル) 』には南蛮椒には大毒がある。
倭国からはじめてきたので俗に倭芥子(ウェギョジャ=にほんからし)というが、近ごろこれを植えているのを見かける。酒家では、その辛さを利用して焼酎にいれ、これを飲んで多くの者が死んだ。
この記録から二つのことが解る。
トウガラシが朝鮮半島にもたらされたのは日本からであること。
辛味成分を毒としてとらえていたことである。
焼酎には「毒」のトウガラシを利用したのは、酒のまわりを早くするために、酒家が考えた智恵だろうとされている。一種のインチキ商法ともいえようか。
~~口伝では清正が目潰し道具に使用。倭寇説も~~
トウガラシが朝鮮半島に伝わった道を考えてみよう。
その一つは豊臣秀吉の朝鮮侵略(朝鮮側は壬辰倭乱)である。
日本の各地から20万近くの兵が朝鮮に入ったが、その前後にトウガラシが持ち込まれたことが考えられる。
文章記録になっていない口伝記録ではあるが、加藤清正が目潰しにトウガラシ粉を使ったとされる。
加藤清正憎しから来た話かもしれない。
もう一つは秀吉以前に、倭寇(わこう)によって伝わった可能性も強い。
(「倭」は日本・日本人、「寇」は賊・外敵の意)。13~16世紀、朝鮮・中国の沿岸を日本人が掠奪したことに対する朝鮮・中国側の呼称。瀬戸内海・北九州の海賊が中心で、元来は私貿易が目的(広辞苑、岩波書店))
加藤清正は今の熊本から朝鮮に向かったし、倭寇も九州周辺に基地を持っていたことから、九州から伝わった可能性が高い。筆者は秀吉侵略以前に倭寇による伝播のほうが有力と見ている。
~~九州から朝鮮に伝播し、再び本州へと逆輸入~~
この九州ルートを裏付けてくれるのは、日本にトウガラシが伝わった記録による。
1542(天文11)年に今の大分県である豊後にポルトガル人によって伝わったからである。
(『草木六部耕種法』)。
16世紀半ばに九州地方に伝わっていたということは、17世紀初の朝鮮の『芝峰類説』にある倭国から来たという記述を理解する上で大切だろう。
秀吉の軍勢が朝鮮にいた1592~598年のころには、すでに朝鮮の地の一部にこのトウガラシがあったとみられる。
それは日本のトウガラシに関する記載が、秀吉の朝鮮侵略のとき持ち帰ったものだとされるているからである。
『大和本腐』(1709年)、『物類称呼』(1775年)などにそのことが記載され、高麗胡椒と呼ばれている。
トウガラシは16世紀にヨーロッパから九州に伝えられ、それが近くの朝鮮へと伝播し、一部で使われていたのを秀吉の兵たちが珍しいものとして持ち帰ったものとみられる。
特に九州からでなく本州からの兵たちにとっては見たこともない「貴重な作物」だったわけだ。
トウガラシは九州から朝鮮。そして本州へと伝播したものとみてよいだろう
■トウガラシの呼称
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
現在呼びならわされているコチュである。
南蛮椒(ナムマンチョ)、番椒(ボンチョ)、倭芥子(ウェギョジャ)と呼ばれた「毒」のあるトウガラシがどうしてコチュになったのか。
~~韓国の呼称コチュは漢字の苦椒からの変化~~
ニンニク 漢字の「苦椒(コチョ)」という表記が訛ったものである。
日本では「苦」を「苦い」とするが、当時の朝鮮の辞典を見てみよう。
16世紀初の『訓蒙字会』によれば、「火のついたような刺激の味の苦(コ)」と解説されており、燃え上がるような辛さの椒という意味で「苦椒」に落ち着いたようである。
コチョがコチュへと変わったとされる。
また苦椒は苦草ともされた。椒と草は発音が同じであること、トウガラシも草であることから、もっともな表現ではある。
しかし、李朝の宮中宴会メニュー『進宴儀軌』(1800年代)には「苦椒」で統一されている。
■トウガラシの普及
(鄭 大聲:滋賀県立大学教授)
ニンニク 日本から来たので倭芥子と呼び、「毒」があるといって、これの使用に疑問を持った人がいた17世紀はじめの朝鮮半島は、いまやトウガラシ消費王国となっている。
料理の味が辛いとされる今日のトウガラシ王国は。
どのように出来上がってきたのか、また先に伝播した国の日本列島と同じでないのはどうしてなのか。
朝鮮半島の辛いトウガラシの味が定着するのには、かなりの歳月が必要であった。
~~毒物扱いの記述から百年を経て食生活に定着~~
トウガラシ以前にいくつかの香辛料がつかわれていた。山椒、芥子、ニンニク、胡椒、蓼、生姜などである。
これに新しくトウガラシが加わることになるが、そう簡単に一般化していない。
1600年代末ごろの料理作りが記された書『要録』、『飲食知見方』、『酒方文』にはキムチ作りはあるが、それにトウガラシは使われていない。
トウガラシが生活に必要なものとして登場するのは、1715年の『山林経済』からである。
『芝峰類説』の毒物扱いの記述からほぼ100年が経っている。
その50年後の1765年に、この書を補った『増補山林経済』に、初めてトウガラシを使った漬物、つまり今のキムチタイプのものが出てくる。
トウガラシが庶民の食生活にポピュラーな材料となるのには、相当な歳月が必要だったことが解る。
~~既存の辛い漬物の存在が、朝鮮にて定着した理由~~
それでも先に知られた日本の九州とは違い、なぜ朝鮮半島では生活の中にしっかりと取り込まれるようになったのか。
いくつかの理由が考えられている。
一つは漬物類にすでに他の香辛料が使われていたこと。
山椒、ニンニク、蓼、胡椒、芥子などで、漬物には「辛いもの」があったことになる。
これらにも勝る辛味を持つトウガラシを徐々に使い慣れるようになったのだろう。
また春に植えて夏に実をつけるが、未熟な果実は辛くなく、野菜代わりに貴重な存在となりえた。
次に、当時貴重な輸入品であった胡椒の代わりに使われるようになったとみられることである。
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